このブログのタイトルに関する私見。

最近暇さえあればBLOGしているので、
家庭内の評価がハナマル急降下中のきゅびです。

さて、昨日の深夜に当BLOGでは貴重な貴重な
男性リピーターのはむねこさん氏から、純度100パーセントの空想に基づく
きゅびの肖像画がプレゼントされました。
ちゃんと目こじきぶりを発揮しているようです。
ありがたく頂戴いたします。
似ている似ていないはともかく、いたく嬉しい一品でしたので
この肖像画をここ2,3日の間、作者イメージとして使用させていただくことにしました。
はむねこさん、ありがとうございます。新作が出来たらまた見せてください^^

で、そのはむねこさんのBLOGで、
(題名の意味がわからないことに今気づきました><b)
ということがかかれておりましたので、その件についてお答えしようと思います。

出典はご存知の方も多いかと思いますが、蕪村です。
ただし、アサヒビールの大麦焼酎ではありません。
歌人・与謝蕪村(1716-1783)です。
オリジナルは
「春の海ひねもすのたりのたりかな」
という小春日和の穏やかな一日をよんだ句です。

余談ではありますが、きゅびは自分が凡才なものですから
三島由紀夫や与謝蕪村といった、天才を感じる文筆家にはたいそうあこがれています。

三島はともかく、蕪村が「天才」といわれても
馴染みのない方は、全く「?」なことと思われます。
これをきゅびが説明しようとすると、根っから「要約」ってものが苦手なモンですから
30人31脚のとき同様、必要以上に長い文章になってしまうことは
まず間違えないので、ここはひとつ四ッ谷龍氏「俳句の歴史」から
すばらしい考察を引用させていただきます。

「俳人であると同時に優れた画家でもあった蕪村は、絵画的で光に満ちた発句を数多く書き残し、
 鮮明なイメージを言語によって喚起することに成功した。
 蕪村の発句は芭蕉と異なり、思想性が表面に出ることはなく、派手な身振りを示すこともない。
 しかし、その言葉遣いは他に例を見ないほど洗練されており、
 彼は穏やかな情景をわずかに描写するだけで、
 景色の背後に広がる永遠の時間を感じさせるという、天才的な言語感覚を発揮した。
 蕪村の発句は描写的であるが、句の風景はリアルというよりも理想化されたものになっている。
 それは彼が景色の表面ではなく、内面にある理想像を描こうとしていることによると思われる。」


そうなのです、まさに。
かつてドヴォルザークが自らの弟子にモーツアルトの音楽を
「見よ、これはまさに太陽のようだ!まぶしい光が溢れている!」
と伝えたそうです。
きゅびはドヴォルザークでも何でもありませんが、
三島や蕪村のような、光が降り注ぐような日本語の持つ「美」をさらりと使ってのける、
そんな神のような才能にクラクラッときてしまうわけです。

本当に余談でした。
でも、以上のことを踏まえたうえで、
あなたも日本語のセンスを総動員してもう一度読んでみましょう。

「春の海ひねもすのたりのたりかな」

どうです?春の情景の向こう側からも伝わってくるはずです。
過去も未来もなく、そこにあるときからずーっと存在し続けるもの。
寄せては返す波。満ちては引く潮。
ぽかぽかと降り注ぐ午後の柔らかい日差し。海鳥の啼く声。
そんな永遠の中から春のゆるやかな昼下がりだけを見事に切り取る、鮮やかな手腕。
これぞまさに、天才だときゅびは心酔するわけです。

ええと、ここまで書いてようやく本BLOGのタイトルに行き着くわけなのですが
この与謝蕪村の代表作品をパクった引用させていただいたのです。
当然きゅびは蕪村の足元のくずにも匹敵しないので
このすばらしい俳句を、きゅびのBLOGにふさわしいものへ、
謙虚に変体させたわけなのです。

まさかこんなことを書くにいたるまで
このブログが存在するとは、ゆめゆめ思っておりませんでした。
三島や蕪村のような天才には逆立ちしたってかないませんが
二人の巨匠には決してない、きゅび独自のオヤジギャグエッセンスなどを織り交ぜながら
今後も地道に更新して行こうと思います。

こんな説明でいいでしょうか?
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by hinemosunorari | 2004-12-12 10:29 | 日々のよしなしごと | Comments(0)

洒落と知性と愛そして無駄の織りなすブルース。


by きゅび
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